「最後の空襲 熊谷」を読んで

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はじめに

熊谷で生まれ育ち、熊谷で事業を営む熊谷人として、熊谷で4人の子どもを育てる親として、75年前に熊谷で起きた歴史をきちんと知っておきたいと思い本書を手にとった。

遠い歴史の出来事でしかなかった熊谷空襲

本書を読む前に熊谷空襲があったことは知っていた。熊谷で空襲があり戦火から逃れようと星川に飛び込んだ方々が多く亡くなったこと。その方々の魂を偲び毎年星川で灯籠流しが行われている。その程度の知識だった。空襲のタイミングが終戦前夜だったことを知ったのもここ数年。しかし、自分の生活と繋がる実感はなく、遠い歴史の出来事でしかなかった。

私と熊谷空襲をつないだ〈東武妻沼線〉

本書を読み一番印象に残ったのは、私と熊谷空襲が繋がったことだ。熊谷空襲が、自分の歴史と重なった。私にとっての鍵は〈東武妻沼線〉だった。昭和58年5月31日、妻沼線の最終運転の日。当時8歳(小学3年生)だった私は、父親に連れられ弟と3人で妻沼線に乗り込んだ。いつもは車から見る大幡から妻沼の田園風景を、電車から見ている新鮮で楽しい思い出が残っている。そして駅に人がたくさん溢れ賑わっていて「こんなに人が乗っているのになんで廃線になるの?」と子どもながらに感じた。その妻沼線が戦争のために造られたものだと知ったのは2年前、熊谷市観光協会主催〈d&d design travel Kumagaya〉編集委員として参加した場だった。本書にも登場される熊谷市学芸員「大井教寛さん」に教えを頂き衝撃を受けたのは私の中で記憶に新しい。そして本書が知識を増強してくれた。

妻沼線から、戦時中の情景をイメージ

当時、太田市にあった中島飛行機会社が戦闘機国内生産の1/3を生産する重要拠点であったこと。星川周辺にたくさんあった染物工場も軍需工場に転用されるなど、熊谷市街地にある中小工場が下請け工場として飛行機部品を製造していたこと。その中島飛行機と熊谷市街地を結ぶために妻沼線が造られ、工場に勤務する工員輸送と飛行機製造用の資材や物資を輸送していたこと。など、実際に乗車した妻沼線を中心に、空白の頭の中に地図が少しずつ広がっていき戦時中の情景をイメージできるようになった。

飛行機のエンジンで走る〈スバル車〉にロマン感じた

太田市のスバル(富士重工)工場の前身が中島飛行機だったことは、私は小学生の頃から知っていた(但し、中島飛行機と妻沼線と熊谷は私の中では繋がっていない)。車の話をきっかけに、親父が話をしてくれたことがあったからだ。親父は若い頃スバル360に乗り、私の幼少期はレオーネ、レガシー、インプレッサとスバル車を乗り継いでいた。スバル車特有の水平対向エンジンを親父は好んでいたのだ。その水平対抗エンジンは中島飛行機のエンジン技術を元にできたエンジンだと親父が誇らしそうに教えてくれた時、「飛行機のエンジンを積んだスバル車ってカッコいいな!」とロマンを感じた。とはいえ、周辺に滑走路なんてなく飛行場がない中で、飛行機をつくる会社が隣町の太田市に存在していたという話は、当時の私にとってどこか現実離れした遠い昔話でも聴いているような感覚だった。まさか75年前。親父から話を聴いた当時からたった50年前の近い時代の話とはとても想像できなかった。ただ私は親父の話を聴いて以来、レガシーのエンジン始動時の音を好むようになった。今でも水平対抗エンジンの音は好きだ。

なぜ熊谷空襲が起きたのか?仮説から熊谷を学んだ

熊谷市学芸員「大井教寛さん」が記された〈なぜ熊谷空襲が起きたのか?〉を4つの仮説から考えることは、当時と熊谷と戦争をまた一段深く知ることになった。

1)軍需産業の拠点と捉えられた。市街地の飛行機部品をつくる中小工場を狙ったために焼夷弾爆撃だったとする説。 2)終戦に導くための中小都市爆撃とアメリカ軍第20航空隊の任務終了のフィナーレだった説。 3)県庁所在地と間違えられた。アメリカ側の地図が明治時代3年間だけ熊谷が県庁所在地だった際の資料だったとする説。 4)占領政策をスムーズに進めるため。占領後に熊谷陸軍飛行学校を関東以北の拠点とするために、近隣住民の反抗を防ぐ目的で行われたとする説。終戦後にアメリカ軍1万2,000人が熊谷陸軍飛行学校に入って、県内や近県に分散駐留した流れがあり、占領政策で必要な施設や交通網は爆撃していないため占領政策との関連はありそう。

戦争を考える一番身近な題材

私たち世代は、近代史をきちんと学べていない。そのために自分と戦争。現代社会と戦争が分断してしまっているように感じている。自分が住む街の戦争史から、空襲体験者、アメリカ軍レポート、B29パイロット証言、記録など、様々な資料や証言をもとに、「なぜ熊谷がターゲットとなったのか?」「なぜ終戦前日だったのか?」「なぜ焼夷弾による空襲だったのか?」真実を考え歴史を紐解いていくプロセスは、戦争について考える一番身近な題材であると感じた。被災都市に住む者として、諸先輩と後世と一緒に戦争について考える時間をつくることは、バトンを受け継ぐ私たち世代も真剣に考えなければいけない課題であると同時に感じた。

さいごに

本書に出会えたことを幸運に思っている。本書をきっかけに、昔の体験や親父との思い出話が蘇ってきた嬉しさもあるが、それが現在から戦争までの歴史を遡る手助けになってくれた。幼少期の妻沼線乗車体験、父親から聴いたスバル車と中島飛行機の話、水平対抗エンジンの思い出話、30〜40年前の熊谷市街地の記憶、そんな点と点が線になって現在から戦争と熊谷空襲までがつながっていき、私と関係する身近な歴史になった。そして私が幼少期から目にしてきた熊谷市街地の光景の下には、軍国主義下の市民生活や学生生活があり、焦土となった旧市街地があり、その上に復興してくれた先人の努力と平和への願いがあることを実感した。そして、自分の住む街により深い愛情を感じる機会となった。熊谷空襲75周年記念出版プロジェクト編集委員の皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございます。